比企ライフネット 話題のこーなー

 
● 2003年5月18日 記 (埼玉県比企郡嵐山町、小川町より)

東武東上線 複線化工事進む

−武蔵嵐山〜信号所予定地間に残る煉瓦橋を訪ねて− (続き)
※この記事では橋台、橋脚の外壁に煉瓦部材を用いている橋梁を「煉瓦橋」と呼ぶことにしました。

<< 前ページへ
東上線の現役煉瓦橋について  東上線命名の由来について  おすすめ関連サイトのご案内

*
*
写真はすべてクリックで拡大できます。
()内のkmは武蔵嵐山からのおおよその距離、方向はカメラを向けた方向です。撮影は3月上旬と5月上旬の2期に分けて行いました。
15) 珍しい煉瓦橋(2の1)
  (2.1km/下り方向/3月撮影)

国道254号線と並行する辺りに残る煉瓦橋。下は歩行者用の通路ですが、ほとんど忘れられたような存在になっています。この橋も9) 10)と同世代なのではないかと思われます。すでに関係者以外立入禁止になっていたため、反対側は撮影できませんでした。

16) 珍しい煉瓦橋(2の2)
  (
2.1km/上り方向/3月撮影)

15)の煉瓦橋上を通過した電車。この付近から現本線は下り線になるようです。手前の鉄骨の橋げたの中にケーブルが通っている構造が分かります。

17) 珍しい煉瓦橋(2の3)
  (
2.1km/下り方向/3月撮影)

15) 16)の煉瓦橋を離れて見たところ。左は国道254号線。このカーブを過ぎると、あとは信号所新設予定地まで見通しの良い直線コースです。

18) 17)と同じ地点の2か月後の様子
  (2.1km/下り方向/
5月撮影)

フェンスに囲まれ、煉瓦橋へ近寄ることはできなくなりました。

19) 造成工事の様子
  (
2.7km/上り方向/5月撮影)

この付近にも2つの煉瓦橋が連なっていて、やはり延伸開業当時のものだと思われます。次の20)〜23)でご紹介します。

20) 珍しい煉瓦橋(3の1)
  (2.7km/上り方向/5月撮影)

19)の地点に残る2つの煉瓦橋のうち、武蔵嵐山寄りにあるのもの。下は用水路で、増水に備えコンクリート壁で護岸されています。

21) 珍しい煉瓦橋(3の2)
  (2.7km/上り方向/5月撮影)

20)の煉瓦橋の反対側。

22) 珍しい煉瓦橋(4の1)
  (2.7km/上り方向/5月撮影)

19)の地点に残るもう1つの煉瓦橋。下には主に農作業のための小道と用水路が通っています。

23) 珍しい煉瓦橋(4の2)
  (2.7km/下り方向/5月撮影)

22)の煉瓦橋の反対側。

24) 造成工事の様子
  (2.7km/下り方向/5月撮影)

19)の地点の反対方向です。このすぐ先が信号所の建設予定地。右奥に工事のための資材置場が設けられています。
(注:この辺りは毒ヘビのマムシやヤマカガシが多く、要注意です。)

25) 信号所建設現場
  (2.8km/下り方向/5月撮影)

複線化されるのは当面、この新信号所までです。信号所とは、構内にすれ違いや追越し(ここではすれ違いのみ)などの待ち合わせのための線路配線と、列車へ停止・進行の指示を出す信号機とが備えられた施設のことで、主に単線区間の途中や、このような単線と複線との境などに設けられます。JRでは「信号場」、東武鉄道では「信号所」と呼び方を統一しているようですが、どちらも意味は同じです。

26) 複線化工事区間の終点
  (
3km/上り方向/5月撮影)

嵐山町と小川町との町境付近を、小川町側から見たところです。写真右端の架線柱の下辺りまで造成工事が行われているのが分かります。

27) 国道254号線小川バイパスの菖蒲沢橋から
  (3.2km/上り方向/5月撮影)

26)の地点から小川町に入ってすぐの急カーブです。付近に住宅地があり、小川町としてはここへ新駅を誘致する案を提唱した経緯がありますが、谷間の築堤上でもあり立地条件としてはどうでしょう。採算性や駅周辺の開発の余地、住環境への配慮、代案の模索など、検討課題はいろいろあるように思えます。

東上線の現役煉瓦橋について

実は今回ご紹介した煉瓦橋より、もっと古い年代の現役煉瓦橋が都心寄りの区間にも残されています。
一例として柳瀬川駅周辺では、1914(大正3)年5月の池袋〜川越町(現、川越市)間開業当時の煉瓦
橋のいくつかが、修繕を重ねながら今も輸送を支えています。
また規模の大きなものでは、高坂〜東松山間の都幾川橋梁上り線が、1923(大正12)年10月の坂戸町
(現、坂戸)〜武州松山(現、東松山)間延伸開業当時の現役煉瓦橋として挙げられます。
なお、川越町〜坂戸町間の延伸開業は1916(大正5)年10月。小川町〜寄居間の延伸開業、すなわち
全線の開通は1925(大正14)年7月のことでした。
話のついでに煉瓦橋ではありませんが、鉢形〜玉淀間に架かる荒川橋梁も、開業当時から今日まで
使われ続けている鉄橋の一つです。

煉瓦橋の中には、すでに鉄筋コンクリート製に造り替えられたものもあります。それらは老朽化によるも
のというよりは、主に下を通る河川の改修や道路の拡幅、和光市〜志木間の複々線化のような大規模
な輸送力増強工事などに伴う造り替えが多いようです。煉瓦製の建造物というのは、なかなか頑丈なも
のなのですね。そう言えば、今年4月に国指定重要文化財になった東京駅丸ノ内本屋(駅舎・駅ビル等
の意味)も煉瓦製です。第2次世界大戦中に空襲で焼失した3階部分やドーム屋根などの復元計画も
あり、喜ばしい限りです。1914(大正3)年12月の竣工ですから、東上線の煉瓦橋とも同世代ですね。
さて、今回の複線化工事で煉瓦橋はどうなるのでしょう。見かけはいかにも古めかしい橋ですが、これは
とても興味深いものがあります。

東上線命名の由来について

「東」は多分東京の意味だろうと容易に想像できますが、「上」はなかなか思いつかないかもしれません。
東上線は最初、東京の小石川と群馬の渋川とを結ぶ目的で、東武鉄道の関連会社、東上鉄道として開
業しました。「上」は上野(こうづ・け)、古くは上毛野国(かみつ・け・ぬの・くに)の頭文字、つまり群馬県
の旧国名を表していたのです。ゆくゆくは新潟県の長岡まで路線を延ばす計画もありましたが、寄居から
先は国有鉄道(現、JR)の事業として完成されました。東上鉄道と東武鉄道は1920(大正9)年の不況下
に経営合理化のため合併したため、今の坂戸から先は当初から東武鉄道東上線として開業しています。

おすすめ関連サイトのご案内

「東上沿線 今昔物語」
当サイトと相互リンクしていただいている、嵐山町ご出身の山下龍男さんのサイトです。
先述の柳瀬川駅や川越駅周辺の煉瓦橋のレポート、都幾川橋梁の車窓風景など、時代とともに移り行く
沿線の様子が現地調査も踏まえながら綴られています。

「日本煉瓦製造(株)公式サイト」
知る人ぞ知る、
東京駅丸ノ内本屋の建設にも使われた煉瓦を製造した、由緒ある煉瓦製造会社です。
創業は1887(明治20)年10月。工場は当初から、今の埼玉県深谷市において稼動。煉瓦の大量生産を
目指し国策として建設された、日本最初の機械式煉瓦工場です。東武鉄道初代社長の根津嘉一郎(1代
目)との関係も深く、一時は日本煉瓦製造の分工場として、東武伊勢崎線の杉戸(現、東武動物公園)駅
の近くに東武煉瓦(仮称)を設立する計画もあったそうです。1907(明治40)年頃のことでした。
東上線の煉瓦橋にも、日本煉瓦製造の製品がふんだんに使われていることでしょう。

「渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり」
JR高崎線深谷駅の橋上駅舎は、東京駅丸ノ内本屋を模した煉瓦外装で地場産業をアピールしていま
す。郷里が生んだ偉大なる実業家で、日本煉瓦製造会社設立にも尽力した渋沢栄一翁を紹介する、
深谷市役所運営のページです。

「TOBULAND 東武鉄道沿線情報」
東武鉄道の利用者向け公式サイトです。
「買う」欄から下記参考図書の申し込みフォームへアクセスできます。

参考図書 : 『東武鉄道百年史』 (正史[本史][資料編]) (1998年10月 東武鉄道(株)発行)
 ※本書は発行時に東武沿線の各図書館へ配布されています。

管理人より >>
この記事については調査の足りない面が多々あると感じております。お気付きの点、また関連情報など
がありましたらメール〔otayori@hiki-life.net〕にてご一報いただければ幸いです。

<< 前ページへ

バックナンバーを見る

HOME  上へ↑