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2006年09月02日

中1の夏、写真部復活の思い出

9月に入ってから、何だか急に秋らしくなってしまいました。
先日までのあの蒸し蒸しした残暑はどこへ行ってしまったのでしょう?

新学期ですね。学生の皆さんは、どんな夏休みを過ごされたでしょうか。
夏休みというと私はよく、中学校最初の夏休みの出来事を思い出します。
学校の暗室で友人たちと体験した、初めての白黒写真現像のことです。

話は小学校時代にさかのぼりますが、入学して間もない頃、4年生から始まるクラブ活動を見学する機会がありました。
私が一番興味をもったのは、もちろん写真クラブ。しかも顧問の先生が私の担任の大好きな優しいT先生で、ちょうど黒板に大きくカメラの断面図を描き、その仕組みを説明されているところでした。それが、私が4年生に上がる前にT先生は転勤され、絶対入ろうと決めていた写真クラブも廃部になってしまったのです。

失望は中学に進学してからも続きました。ここにも写真部は無かったのです。
しかし幸いなことに、私のクラスにはたまたま写真好きの男の子が集まり、中には自宅に押入れを改造したお座敷暗室を持っている子もいて、結構楽しくカメラの話題など交わし合うことができたのです。
私たちの普段共通の関心事は、もっぱら玄関に近い踊り場の階段下にあった、謎の小さな開かずの間に向けられていました。そこには確かに「暗室」という札がかけられていたのです。
「あれって、現像用の暗室じゃないの?」
悶々とした思いは募る一方でした。

状況はある日急転しました。仲間の誰かが以前は写真部もあったことをつきとめ、元顧問だった先生に相談したところ、夏休みの間だけ暗室を使わせて欲しいという願いに快く応じてもらうことができたのです。早速希望者を募り始めたので、私も一も二もなく誘いに乗りました。
そして待ちに待った夏休み。課外の運動部の生徒くらいしかいない閑散とした校舎に、私たちは集合しました。嬉しいことに、元顧問の先生が写真部OBのプロカメラマンだという講師のお兄さんも招いてくださり、安心して作業に取り掛かることができたのです。
暗室の中はさすがに蒸し風呂状態。狭苦しいところへ男子が何人も詰め寄り、カビと埃と薬品と汗の臭いが充満してそれは劣悪な環境でしたが、楽しかったですね。持ち込んだネガを自分で大きく引き伸ばす達成感。お兄さんに手ほどきを受けながらも、なかなか思い通りの濃さにプリントできずヤキモキしましたが、貴重な体験でした。初めてフィルム現像に挑戦した友人が、仕上がったネガを両手で広げながら「写ってる! 写ってる!」と叫んで暗室から飛び跳ねるように出てきた姿が、今も忘れられません。

束の間の写真部復活。このまま正式に復活したらいいのにと、そのとき仲間の誰もが思っていたのですが、果たせませんでした。その願いを叶える以前に、私たちの気持ちがバラバラになってしまったからです。
その頃、なぜか全国的に中学校の風紀が荒れだし、非行や校内暴力の記事が新聞を賑わせ始めていました。当時カメラに興味を持つ男の子というのは、概して大人びた、多感で批判精神の強い、少し背伸びしたがるような子が多かったのでしょう。次第に校則を厳しくする学校側に反発し、写真仲間だった友人たちは一人、また一人と、不良の真似事みたいにツッパリのグループへ加わっていったのです。勉強ができないわけでもないのに授業態度も悪くなり、彼らの成績はどんどん落ちていって、先生たちから差別的な目で見られるようになっていきました。クラスの友人関係もギクシャクしたものになって、真面目だった私はあれほど親しく言葉を交わした仲間からも、「お前なんか俺たちに関係ないだろ」といった態度をとられるようになってしまったのです。

仕方なく、仲間の解散後は写真部復活を諦め、私はお座敷暗室の持ち主である唯一冷静だった友人の部屋で、プリントワークを学ばせてもらったのでした。
その後2年生の冬休みを迎え、ついに私も念願の暗室を持つことができました。私が当初試したのは、風呂場を使った仮設式です。また同じ頃、クラスは違うので写真部復活には加わらなかったのですが、小学校を卒業した春、一緒に小川町を撮影旅行した長年の親友も自分の暗室を持ちました。
3年間を通じて、非行に走ることなく愚直なまでに写真を撮り続けていたのは、この3人くらいだったでしょうか。お互い、鉄道やユースホステルを使って撮影旅行に出かけるのが好きで、しばしば誘い合っては思いっきり遠出をしたものでした(札幌辺りまで)。表向きは従順でしたが、実行力があるという点では、今思うと私たち3人の方がよっぽど不良だったのかもしれませんね。行く先々でよく補導されなかったものだと、つくづく思います。
3人は、卒業してからも揃って日帰り旅行へ出かけたりもしました。

本来なら、こんな仲間がもっとたくさん作れたはずの、中学校生活でした。
実は、一人ツッパリグループと付き合いながらもガリ勉を続け、一流の進学校に見事合格した子がいました。その子が卒業式の後、元グループの中心人物から裏切り者として狙われ、一時先生にかくまわれるという騒ぎも起こりました。陰の努力家だったその彼も、本当はカメラや写真が好きな子だったのですが、私とはお互いに意識しながらも、とうとう友だち同士親しく付き合うきっかけを逃してしまいました。

校則の趣旨を生徒たちに理解させることは大切なことだし、大変なことに違いありません。ただ、それを形式的に大人の力で押し付けられたことで、当時思春期に差しかかっていた私たちの失ったものは、あまりにも大きかったように思います。いつも同じクラスメイトが顔をあわせる教室の中で、従順な子とそうでない子とが何人もの先生から知らず知らず差別を受けるのも、お互いの寄るべき場所が奪われる結果を招いてしまいました。今考えても大きな代償だったと思います。それぞれ立場は違っても、みんな自分の居場所を探して人知れず悩んでいただろうと思います。
この時期の子たちは、まだまだ大人にかまってもらいたい年頃なのです。むしろ小学生のときより、自分の意思で指導者となる大人に接することを求めようとしています。それを、どんな理由があろうといきなり突き放したり自立を焦らせたりすることは、その後の進路にも禍根を残すことになると思います。

かつて写真用暗室を備えた小中学校は数多くあったようですが、まだ写真の豊富に掲載された出版物も少なく、教材作成用としても先生方が資料写真を引き伸ばすのに必要としていた時代の名残りでしょうか。やがて写真印刷物があふれ便利な複写機も普及するにつれ、次第に暗室も使われなくなり、同時に写真部のある小中学校も減っていったようです。
私がようやく写真部に所属し、放課後存分に活動できるようになったのは、高校生になってからでした。都立高校でしたが、中学時代と違いまるで自由きままな校風で、あまりの放任主義にちょっと拍子抜けするほどでした。
その写真部の名は「光画部」といって、あるアンドロイドが主人公の人気学園コメディ漫画のモデルにもされたことのある、かなりユニークなクラブでした。母校や光画部について書き始めるときりが無いのでこれくらいにしておこうと思いますが、今も同好会に格下げされたものの、細々と続いているみたいです。
(冥王星みたいだ。)

最近は高校でも暗室や写真部のある学校は少なくなり、なんだか寂しい気がしますが、本来一人でやるようなものじゃないと思うんです、写真というのは。大人になってからだと、写真クラブのような団体にはどうしてもお稽古事みたいなスタイルで入門することになりがちですが、学生の皆さんには、もっと自由に好きな写真に打ち込めて、お互いに楽しみながら撮った写真を見せ合える場所を見つけて欲しいと思います。

項目: 写真・カメラ

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