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2006年10月05日
ペンタックスK10Dの青春
デジタル一眼レフのアルカディア(理想郷)
ペンタックスは「フォトキナ 2006」への参加を機に、今後のデジタル一眼レフシステムの展開について、かなり具体的な開発内容を公にしました。
同社のイメージングシステム事業部長の鳥越興さんはImpress Watchのインタビューに応じ、ペンタックスの近況について次のようにコメントされています。
「K100D、K10Dの2製品は、まさに一眼レフカメラにこだわり続けてきたペンタックスのビジョンを具現化した製品です」
〔中略〕
「良い製品が投入でき、それが市場で受け入れられたことで、社員のモチベーションが上がってきました。PMAからたった7カ月ですが、しかし社内の士気は全く違います。若い開発者たちは、次はどんなものを作ろうかと、活き活きと目を輝かせている」
〔中略〕
「社内的にも開発者が、新しい製品へとチャレンジできる環境ができてきました。Kシリーズのコンセプト、目指すところといった軸をぶらさず、みんなが同じ価値観を共有しながら、非常にエネルギッシュに製品開発に取り組んでいます。近年ではもっとも充実した時期だと思います」
〔中略〕
「これは我々経営側が喜んでいるだけではありません。トップダウンで開発の加速を押し付けているわけでもない。社員自らが盛り上がっているんです」
「デジカメWatch」:2006年2月28日付記事より抜粋
【インタビュー@Photokina 2006】
夢を語れる会社に生き返ったペンタックス
~ペンタックス イメージングシステム事業部長 鳥越興氏に聞く
私はこのインタビュー記事を読みながら、まるで、目の前にデジタル一眼レフのアルカディア(理想郷、牧歌的な楽園)が開けてゆくような深い感動を覚えました。しかし、「後世牧人の楽園」の伝承が生まれた実際のギリシャのアルカディアの地が険しい山岳地帯であるように、K10D開発までの道のりも決して平坦なものではなかったようです。
報道用から始まったオートフォーカス一眼レフのデジタルカメラ化
交換レンズが豊富に揃ったオートフォーカス一眼レフのデジタルカメラ化は、何よりもまず速報性が求められる報道用から始まりました。
今から14年前、1992年10月に米国のコダックが発売したDCS200シリーズが、実用的な最初の市販品です。デジタル撮影部はコダック自らが開発しましたが、カメラ本体の部品や交換レンズ類は、ニコンの既製品が流用されました。画素数はまだ150万画素。その割には値段も150万円前後と高価で、大きく重く使いにくいものでしたが、世界中の報道機関で受け入れられたようです。
その後コダックはキヤノンとも協業し、ニコン、キヤノン両ユーザーへデジタル一眼レフの供給を始めましたが、ペンタックスはその対象にはなりませんでした。果して両社の間に商談があったかは私の知る由もないのですが、報道分野への市場展開が、ペンタックスの場合あまり進んでいなかったことも背景にあったのでしょう。
当時すでにペンタックスもオートフォーカス一眼レフの製品化を進めていましたが、残念なことにシステムの充実は他社よりやや遅れていました。けれどもそれは、決して開発を怠っていたからではありません。実は、業界内で起こったある訴訟事件が影響していたのです。
ペンタックスこそオートフォーカス一眼レフのパイオニア
あまり一般には知られていないことですが、一眼レフのオートフォーカス化に関して、ペンタックスは早くから実用化に向け研究を進めてきたメーカーです。これには、パートナーとなる企業がありました。様々な自動制御システムの開発で知られる、米国のハネウェルです。
ハネウェルは1950年代から70年代半ばにかけて、米国におけるペンタックス一眼レフの輸入元でもありました。その間、露出やストロボシステムなどの自動化で両社は協業関係にあり、オートフォーカス技術の共同研究もその一環として行われていたようです。ちょうど今の、ペンタックスと韓国のサムスンテックウィンとの協業関係に似ているかもしれません。
ペンタックスは1981年に、試験的な意味も含まれていたかと思われますが、研究の成果としてカメラの発展史上に残るME-Fという機種を発売しました。実際に撮影レンズが結ぶ像を利用しピントを検出するオートフォーカス一眼レフとして、世界初の快挙でした。ピント検出の原理は現在一眼レフで主流となっている方式とは異なりますが、コンパクトデジカメではほぼ同じ原理が応用されていますし、測距センサーの搭載方式自体はその後の各社の定石となるものでした。カメラメーカーとしてのペンタックスの先見性の高さを物語る好例と言えるでしょう。一方ハネウェルは、一眼レフ用として主流となる方式を確立すべく、測距センサーの更なる改良を進めていきました。
オートフォーカス測距センサーの特許問題が残した禍根
ところがここで、重大な事態が起こりました。1985年、旧ミノルタが日本国内の電子部品メーカーと組み、ハネウェルが開発していたものに極めて近い測距センサーを完成させ、それが搭載されたオートフォーカス一眼レフα7000を発売したのです。ニコン、京セラ、オリンパス、キヤノンなどの各社も競うように国産測距センサーを採用し、オートフォーカス一眼レフ市場に参入し出しました。ハネウェルが特許侵害として旧ミノルタを筆頭に、電子部品メーカーも含むこれら日本の各メーカーを訴えたのは言うまでもありません。1987年のことです。
当時ペンタックスは、極めて難しい立場にあったと思われます。国産測距センサーの採用に際してハネウェルに特許料を支払えば、国内各社の特許侵害をペンタックスが証言するかのような結果を導くからです。米国で始まった裁判を見守りながらも、結局ペンタックスは1987年、SFXという機種で他社より遅れて市場参入を果たしました。かつてのパートナーに対する配慮と国内同業者に対する配慮との間で慎重にならざるを得なかったのかもしれませんが、このときの出遅れが後のペンタックスの市場展開に少なからぬ影響を及ぼしたことは、残念ながら否めないように思えます。
旧ミノルタがなぜ危険なリスクを犯したかについては、当時の同社の経営不振に対する焦りが根底にあったからだと言われています。α7000の大ヒットは一時的にも経営危機を救いましたが、代償として同社は100億円を越えるロイヤリティをハネウェルに支払わなければならなくなりました。1992年、旧ミノルタほか各社に有罪判決が下ったからです。その後も同社の業績は回復せず、旧コニカと合併してコニカミノルタホールディングスとなりましたが、一眼レフ事業についてはこの夏、ソニーに引継がれたことは既報の通りです。
意外にも早かったフィルムカメラ技術の新規開発終了
先の特許問題ではペンタックス自らも当事者となる道を選ばざるを得ませんでしたが、その和解成立が見えてきた1991年12月、市場展開の遅れを挽回すべく発売されたのが同社初の本格的ハイアマチュア向けオートフォーカス一眼レフ、Z-1です。当然、私も発売されると同時に購入しました。私にとっては初めてのオートフォーカス一眼レフでしたが、使いやすく初期不良や自然故障などもなく、その安心感から今も2台のZ-1を仕事でも愛用しています。
Z-1は自動化を積極的に進めながらも、半自動、あるいは手動調整への切り替えが素早くできる独自の操作系を採用したところに新しさがありました。その良さは実際に使い込んだ人でないとなかなか分からない面もあって、アマチュアや大衆層よりはむしろ、プロカメラマンからプライベート用として評価を集めたようです。
その後高性能の交換レンズも続々登場し、1994年には細部を改良してよりユーザーの意図に応じた設定のできるZ-1P(Pはパーソナルの意味)も発売されました。しかし、出遅れの挽回は思うようには進まなかったようです。Z-1Pは結局、ペンタックスの35mmフィルムカメラとしては最後のハイスペックモデルになりました。
この頃になるともう、コダックからはニコンやキヤノンのオートフォーカス一眼レフをベースにした報道用デジタルカメラが発売されていたわけですが、あるいはその時点でペンタックスはすでに、フィルムカメラの将来性に見切りをつけていたのかもしれません。当時の業界の動向も知らずに私は、Z-1Pをさらに発展させた上位機種の登場を今か今かと信じて待ち続けたのですが、今思えば多分はじめから、Zを越えるものは用意されていなかったのでしょう。その後もペンタックスからは買い替えや新規ユーザーの獲得を促すほどの新製品は発売されないまま、静かに年月は過ぎていったのです。
ペンタックスK10Dの青春
間もなく発売されるK10Dは鳥越さんのインタビュー記事にもあるように、まさしく「ペンタックスのビジョンを具現化した製品」に違いありません。それは、3年前の同社初のデジタル一眼レフ*istDの発展型というだけでなく、15年前のZ-1のコンセプトを受け継ぐ正当な後継機とも思えるからです。
私がまだ中学2年生だった1979年、ペンタックスからコンパクトな廉価版一眼レフ、MV1が発売されました。そのテレビコマーシャルのBGMに流れていたのが、ユーミンこと荒井由実(現、松任谷由実)さんのヒット曲『あの日にかえりたい』でした。好きだった人の写真を泣きながらちぎり、でも捨てきれずもう一度会いたいと願う、そんな青春の切ない気持ちをふり返る歌です。給食の時間になると放送委員さんもよく流していました。ユーミンの曲にはほかにも『卒業写真』など、写真の中に込められた青春を大切に描いた歌がたくさんあります。
ペンタックスは1952年に日本で初めて35mm判一眼レフを発売したメーカーとして有名ですが、それは今の同社の実質的な創業者だった故松本三郎社長(当時)の強い意志によるものでした。あらためてメーカーサイトのK10Dのページや新しい交換レンズ群の開発ロードマップ(PDFファイル)を眺めていると、鳥越さんのお話しの中の「若い開発者たち」は今、それこそ青春の真っ只中にいるんだな、ということが伝わってきて嬉しくなります。前身となる旭光学工業合資会社は1919年の創業ですから、光学機器メーカーとしてのペンタックスは老舗中の老舗になるのですが、その開発に取り組む若々しさはまるでベンチャー企業そのものではないでしょうか。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときはじめて老いる。
(サムエル・ウルマンの詞『青春』の一部より 宇野収、作山宗久訳)
私がこの詞を知ることができたのは、同じ小川町にお住まいの木工芸作家で以前は高校の世界史の先生をされていたsoroさんが、何度かご自身のブログ「No Blog,No Life!」で紹介してくださったからでした。soroさんもまた*istD以来のペンタックスのデジタル一眼レフの愛用者で、K10Dの発売を心待ちにされている近況を10月5日付のエントリーでも綴られています。
青春を撮るためにカメラがあって、だからこそそれを作る者はいつだって青春を忘れない。言葉だけでなく行いでも示してきたペンタックスは、その生い立ちからして青春の良く似合うカメラメーカーなのだと、私には思えるのです。
*ご参考
arinkoさんのサイト「P-P-Hyalala」で、荒井由実(現、松任谷由実)さんのヒットソングのメロディをいっぱい聴くことができます。
・『あの日にかえりたい』 →8番をクリックするとリストが出ます。
・『卒業写真』 →10番をクリックするとリストが出ます。
いずれも歌詞付です(JASRAC許諾第J020104784号)。
項目: 写真・カメラ
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